『姉ちゃん、ホトホトさまの蠱を使う』作品評(阿部嘉昭)

 開巻早々の黒画面で、傷のような縦棒が一本、無造作に現れる。それがやがて二本になり三本になる画面が出てくると、映画内に小分けされている章の序数だという了解も成立してゆくのだが、ご覧のようにそれはローマ数字ではなかった。縦棒の数でのみ数値がただ表象されるから、それがやがて十本を超えだすころになると、定着時間の短さもあって数値が判読不能になる。本当に数値は場面を追うごとに加算されているのだろうか。たとえば「13」などヤバい数値が欠落しているのではないか。何より、場面転換を必要以上に小分けしているこの章数の介入が観客を煩悶させる。増殖と把握不能性。あるいは交換可能性の予感。それは「時間」と「虫」のもつ属性をも暗示してはいないか。ともあれ、棒が20本出る黒画面を介したあと、この「気持ち悪い映画」は終わる。

 黒沢清の『ドッペルゲンガー』が「ジャンル」を横ズレしてゆく運動の破調をもっていたのと同様のことが、この大工原正樹監督『姉ちゃん、ホトホトさまの蠱〔こ〕を使う』でも起こる。最初は、廃墟性が侵食している土地・木更津への姉弟の「再訪物」かと予想していると、それが「あいつ」を重心に置いた、相姦臭のつよい姉弟の「トラウマ物=心理映画」に変貌しだし、やがては真正の怪奇映画となって、「否、これは哲学的な時間論映画ではないか」という衝撃すら生まれる。この瞬間に映画は無慈悲に閉じられてしまう。途方に暮れつつも、そのジャンル的な軸にたいする「逸脱」の運動こそが、作品の気味悪さの正体でもないかという感慨が走る。

 細部は「消えること」「出現すること」をまずは丁寧に織りあわせる。緑魔子の唄う「やさしい日本人」をおもわせる曲調でヒロイン自らの唄う、高橋洋作詞/中川晋介作曲の主題歌が冒頭流れるが、その最初の「終わりの歌が聴えてくるよ」の「聴えてくるよ」で、縦構図中、姉弟のクルマが画面奥行から近づいてきたときに、もともと「出現」の強度も図られていたのだった。

 姉弟が母の勤めていた旅館が廃墟になったのを確認したのち(ここで弟が「いつ潰れたのかな? 10年前――15年前?」と呟くことから、姉弟の再訪が少なくとも15年ぶりということがわかる)、ふたりの赴いた映画館の看板は「Cen_ral Bowl」と「t」が欠落していた。このことから、「消滅」に注意しろという画面的伝令が生ずるのだが、姉は弟が映画館を切り盛りしている旧知の女性と話すあいだに「消える」(男子トイレにいた)。あるいは往時の三年をふたりとその母が暮らした文化住宅に行き着くと、建物内を覗き込む姉の目の前に、いつの間にか住宅に入り込んでしまった弟が窓ごしに顔を「出す」。話題が「あいつ」に及ぶと、弟は忽然と押入れのなかに「消える」。極めつけはふたり――長宗我部陽子岡部尚の青春期を知る隣人の高橋洋が画面「退場」するときの、速さとカット割の異常だろう(それまでは成瀬巳喜男ばりの角度と遠近の変化を組み込んだ丁寧なカット割が遵守されていたから唐突感もいやましになる)。

 これら一連で三回、弟にとっての姉の「往年」の雰囲気を醸すためか、長宗我部の衣裳がリアリズムを飛び越えてセーラー服になるが、こうしたコスチューム変容遊戯はその後の展開では「消える」。それでセーラー服は人の出現/消滅を鮮烈に印象させるために使用された「時間論的なもの」という、一種の恐怖感に襲われる。これは「出鱈目」が「整然としていること」の脱臼感というべきかもしれない。いずれにせよ観客は章数を把握不能であるように、作品のジャンルを――リアリズムの濃淡法則を掌握できず、この時点ですでに「恐怖寸前」に置かれるのだった。

 「あいつ」の語がこれほど乱舞される映画はおそらく大島渚『東京戦争戦後秘話』以来だろう。ただ「あいつ」の語すらやはり「出現」したのだった。岡部が「うろうろしている奴」「あの男」「バケモノ」と三様に表現した対象が、やがて長宗我部によってはじめて「あいつ」と三人称化された経緯に注意しなければならない。三人称の恐怖。ラスト直前、いくら殺しても殺しきれないという「あいつ」の性格が定位されたのち、「あいつを憎めば憎むほどあいつに似てくる」自分たちの悲劇性が語られ、「あいつ」が「バケモノ」とふたたび換言されて姉弟の存在に影を落とす。

 姉弟の旧地来訪が二日に及び、気味の悪い夜の旅館場面となる。小津『晩春』を想起させるように姉弟の蒲団が並び敷かれる。眠る弟への俯瞰ショット。悪夢にとりこまれた弟が金属音のような呻きを洩らす。物音に起きた姉と過去の述懐がなされたあと、姉が浴衣の帯で、弟と自分が無限の恐怖へバラバラに墜ちないよう自分たちの腕を結ぶ。市川崑『おとうと』の引用だが、帯で互いを結ぶ動作とは入水前の男女のそれともおなじだ。もともと旅館内で姉が弟にたいして「結ぶ」動作はヤバいのだ。成瀬『乱れる』高峰秀子加山雄三の指に「勘定紙縒」を「結んだ」からこそ、ふたりはあの映画の最後で、相互の生死を違えながらも「象徴的心中」を結果したのではなかったか。障子に朝焼けの紅い光が映るときの吉田喜重『鏡の女たち』のラストにも似た無時間性。見落としてはならないのが、蒲団を並べたふたりの枕元に「蟹の図像」が存在していた点だ(設えではなく、室内の畳にもともと存在していたものだという)。甲殻類の内部空洞と、虚無の反響性。それがこの作品の中心主題「蠱〔こ〕」へと「ひびいてゆく」。

 蠱――蠱毒とはなにか。ウィキペディアなどを引けば、こうある――《蠱毒とは、古代中国において用いられた、虫を使った呪術のこと。「器の中に多数の虫を入れて互いに食い合わせ、最後に生き残った最も生命力の強い一匹を用いて呪いをする」という術式が知られる(この場合の「虫」は昆虫だけではなく、クモ・ムカデ・サソリなどの節足動物、ヘビ・トカゲなどの爬虫類、カエルなどの両生類も含む)》。同属共食いののちの最終覇者が破壊的呪力を得る――というのは一見「超人思想」とも共鳴しそうだが、問題は同属をそのように「配剤」する「神の手の悪意」と、その結果としての「時間の極度の抽象化」のほうではないのか。

 井川耕一郎の脚本は「ひよめき」「ファントム」「赤猫」といった「綺語畸想」から怪奇をつむぐのを常とするが、十五年以上前に「蠱」を(カルピスの)瓶に詰めるというかたちで成立した弟の呪術器が宿泊の翌日の文化住宅再訪で「掘り起こされ」、やがては瓶の空間性が木更津近郊の隧道へと象徴的に転位し、さらには「蠱」の同属性が姉弟、さらに「あいつ」のあいだで形成されるにおよび、怪奇性も頂点に達してゆく。隧道内での一旦の「あいつ」の轢殺、手潰し、土葬ののち、なぜか時間が「反復」して二度目の隧道場面となるとき、瓶のなかに満載された「蠱」がクルマの後部座席でガサリと動く気味悪さ。旅館の障子に予告されていた赤光に隧道内はさらにみちあふれ、姉は隧道内へ急行した。そこで「出現」する、「あいつ」と懲罰される弟の、構図と動きの気味悪さも忘れられない。

 彼らは無限にこの「共食い」をおこなうのか。とすれば、もはや彼らが時間を反復させているのではなく、時間自体が反復されてそこに彼らがたえず召喚されているというべきなのだ。その証拠こそが、時制を度外視して映画が自らを「反復」したようにみえるラストシーンだろう。しかしそれが「愛の場面」でもあるという逆説こそがすばらしい(ぜひ実地検分を)。

 ひとつ、つけくわえるなら、この作品はすべて人物の「動作(行為)」しか撮っていない点も見事だった。

阿部嘉昭(評論家・詩作者・北海道大学准教授)

(『姉ちゃん、ホトホトさまの蠱を使う』+プロジェクトDENGEKI劇場バンフレットに寄稿いただいたものを再録しました)