『姉ちゃん、ホトホトさまの蠱を使う』試写を見て(にいやなおゆき)

今日、また『姉ちゃん、ホトホトさまの蠱を使う』試写に行ってきました。これで何度めか。7回……いや、8回くらい観てるかも。しかし不思議な事に何度でも観れるんですよね『ホトホトさま』。ストーリーだけの映画なら飽きるし実験映像だと疲れるけど、この作品は歌を聴くように何度も味わえる。

大工原監督の映像は、一見普通に見えるけど実はもの凄い多層構造を持ってます。フィックスの画面の中に、ゆうに3カット分の情報がつまってる。いや、情報というより「物語」と言った方が良いのか。ダブルミーニングどころかトリプルミーニングなカットが続出する。それなのに普通に観れてしまう。

ワンショットの中に、様々なキャラ(だけでなく、風景の表情までも)を同時に焼き付けるという離れ業を大工原さんはやってるんだけど、それがあまりに自然すぎて、一見平凡に見えてしまう。でもこれは今、誰にも出来ない事です。それは技術では無いのです。

大工原さんの「人柄」と言ってしまっては身も蓋も無いけど、もっとこう、なんと言うか、本質的なもの。様々なモノやコトやヒトを真っ直ぐに見るという事。それが出来る人が現代の映画界に何人いるだろう。映画はそれを作った人の視線を体験するものでもあるのです。皆さんに大工原さんの視線を体験してもらいたい。

「痴漢物のVシネで、痴漢に被害者の女性が恋するっての撮らされたけど、痴漢に惚れる女なんているわけない」と、平然とテーマを拒否する(しかし、商品になっている)作品を撮る人です。昨年の大阪上映会で女性ファン大量発生。諏訪太朗さん主演のエッチVシネなのに。

様々な映画を、それぞれ30回観て評価するなんて実験をやれば、恐らく大工原作品はダントツで一位を獲得するだろう。再見、再々見に耐える事こそ名作の証ではないのか。言っとくが、私は後10回『ホトホトさま』を観ても平気だ。

そもそも大工原さんの傑作『風俗の穴場』なんて、上映、VHS、DVDと何度も何度も、恐らく12回位は観てるけどまだまだ平気。これまた大阪での大工原さん特集上映で、女性ファンが大量に発生。エッチVシネですけどAAA級のお薦め作品(アマゾンで買えます)。

同時上映『純情No.1』がまた凄い。映画美学校の一日撮りの授業作品だけど、凄まじい展開。長宗我部陽子さんのスクリューボールトイレットコメディ。とにかく長宗我部さんが可愛い。『姉ちゃん』の長さんも可愛かったけど、これは絶品。彼女をこんなにチャーミングに撮れるのは大工原さんだけ。

一緒に飲んでる時の長宗我部さんってこんな感じなんですよ。彼女、結構ハードな役が多いけど友人と一緒の時はこんな雰囲気。自然に役者さんの本質にアクセスして魅力を引き出すのも大工原さんの得意技。さっき書いた痴漢Vシネ『痴漢白書8』の長さんももの凄く可愛いですよ。

サングラスにスカーフで、まるでオードリー・ヘップバーンみたいな格好で暗躍するコメディエンヌ看護婦。あはは。


(『純情No.1』より)

とにかく『姉ちゃん、ホトホトさまの蠱を使う』は観ないと損ですよと私は言いたい。で、今日観た併映作。『お姉ちゃん、だいきらい』『ちるみの流儀』、いかにも学生自主映画な小品だけど、今の商業映画にもいわゆるインディペンデント映画にも無い手触り。バカっちゃあバカだけど。

これを大工原さんが選んだ理由はよく分かる。自分を大きく見せようとか、誰かに褒められようとか、そういう「映画」と関係ない事は一切存在しない潔さだ。バカだけど。こういう映画は権威ある映画祭やコンテストで褒めてもらえる事は決して無いだろう。なぜなら「コンテンツ」として利用出来ないからだ。

自主映画を作ってる人は考えて欲しい。我々の作品がいつの間にか「インディペンデント映画」という名の商品にされてしまっていないか。無料で、または安く使える便利な「コンテンツ」として「ホラー映画」や「カンフー映画」と同じく「インディペンデント映画」という名のジャンルの一種に押し込められていないか。

それを足がかりにして商業界にデビューするならそれもいい。映画祭やミニシアターと持ちつ持たれつでつきあっていくのも、それも良い。しかし自主映画が「インディペンデント映画」と呼ばれた瞬間に抜け落ちて行くものが確実にある。昔、高橋さんもインディーズ呼ばわりに対して「我々はインド人ではない」と反論していた(論旨はすっかり忘れた)。

『お姉ちゃん、だいきらい』『ちるみの流儀』と、昨日観た『電撃』は徹頭徹尾自主映画である。自主映画は「インディペンデント映画」とイコールではないし、アマチュアか、プロか、という区別も無意味である。フィルムセンターで目撃した伊藤大輔の『斬人斬馬剣』は、まさに自主映画の臭いがプンプンする野蛮なものだった。

大工原さんが『姉ちゃん』のチラシに書いたコピー
「まだこんな奴らがいたのか!」「プロジェクトDENGEKIがインディーズの暗闇に放つ10本を目撃せよ!」ってのは、実は「インディーズ映画界に灯をともす」なんて意味ではない。「インディーズと呼ばれてる映画界の暗闇に投げ込まれる小石」という意味だそうだ。それは「音も無く消えて行くかもしれない」というもの凄くシビアな意味なのだ。

大工原さんは商標としての「インディペンデント映画」なんて信じていない。そもそも大工原さんや鎮西さん、常本さん、山岡さんといった友人達が撮っていた商業映画も「商業映画の暗闇に音も無く消えて行く」作品だった。それらは商品であると同時に、『斬人斬馬剣』と同じ臭いのする自主映画だったのだ。

自主映画とは、何かに利用しようとしてもすり抜けてしまうX。特定のジャンルに属していても、必ずはみ出してしまうXX。面白い面白くない、好き嫌いを超えて、観客の心にズカズカと踏み込んで来るXXX。やりたい事を誰にも遠慮しないXXXX。そういうものだ。

常本拓昭監督の『アナボウ』なんか「インディペンデント映画」の方が裸足で逃げ出すだろう。あの作品もはみ出しまくっていたのだ。何がとは言わないが。

お客さんが観て面白がってくれるかどうか分からない。でも、誰の物でもなく、撮る人、映る人、観る人、全ての人に向けて嘘をつかずに撮った「自主映画」が『姉ちゃん』と『プロジェクト電撃』の諸作品で目撃できる。言っておくが『電撃』の波多野桃子ちゃんはもの凄く可愛い。


(『電撃』より)

そして『お姉ちゃん、だいきらい』の先輩役、『牛乳王子』『先生を流産させる会』監督の内藤瑛亮のキャラは尋常ではない。そこでは、中学生が作った、なにも恐れの無い、無謀な8ミリ映画のような事が平然と行われる。それが自主映画の特権である。

『ちるみの流儀』では「カメラを回しっぱなしにして、キャストに酒を飲ませて放置したらどれほど野蛮な事が起こるか」という、まるで実験映画のような事が行われる。観客達は、だらだらした素人演技を見せられて「困ったもんだ」と油断しているうちに、スクリーンに映し出されるあまりに下らない光景に腰を抜かすだろう。

そうなのだ。そういう事を「自主映画」はやれるのだ。そういえば、私が出演している『暗号解読スパイミニチカ』も凄かった。TBSの深夜番組なんだが、そこらの公園で一日撮り。なんで私がロシアのスパイにならなければならないのだ。しかも赤いタオルの鉢巻きにひげ面でニッカボッカでウェイトレスさんを殴り倒すのだ。

主演の佐藤康恵さんは良いとして、他の出演者は全員映画美学校の講師。全員付け髭のロシアのスパイ。なんでこんなモノにTBSがOK出したのか。謎だ。こんなモノが全国放送されて、さらにDVDにもなって、さらに劇場公開されてしまって良いのだろうか。

『プロジェクト電撃』の一本、磯谷渚の『わたしの赤ちゃん』も、これまた凄い。80年代の大映テレビ半年分を16分でやってしまうのだ。いや、やってしまったのか、やらされてしまったのか。監督の磯谷渚は、映画美学校堀ちえみだと今決めた。片平なぎさ中原翔子か。

「インディペンデント映画て、ショボクてツマンネンじゃね」と思ってる男の子。「インディペンデント、ダサ!」と突っ込み入れてる女の子。いやいや、『姉ちゃん』と『プロジェクト電撃』はインディペンデント映画なんてシロモノじゃございません。自主映画と言う伝統ある古典芸能なのです。そしてそれは、常に映画界の再前衛に位置しているのだ。さて、もう寝よう。一杯飲んで。

*これは、ツイッターで行き当たりばったりに書いた文章に加筆訂正をしたものです。
*『ちるみの流儀』、スタッフに未確認なんですが、あれはやはり、消え物の酒類は撮影中にスタッフキャスト、全員飲んでますよね?

にいやなおゆき(アニメーション作家)