愚かなる姉弟(井土紀州)

 姉と弟は、母の遺骨を抱いて、かつて自分たちが暮らした街を徘徊する。その過程で二人の内に、かつて義父に受けた虐待の記憶が甦り、姉弟は義父の影に怯えることになる。性的暴行を受けていたらしい姉は、「男の人の指が怖い」と言い、水に沈められていたらしい弟は「風呂に入るのが怖い」と言う。彼らは義父と離れて暮らす今も、その感触に呪縛され苦しんでいる。やがて、彼らは互いに牽制しあい逡巡しながらも、妄想の中で義父を殺そうとする。姉思いの弟は、義父の指を潰そうとし、弟思いの姉は、割れたカルピスの瓶で義父の喉をかっ切ることになる。そのカルピスの空瓶は、かつて弟がたくさんの昆虫を入れて殺し合いをさせたものであり、これがタイトルになっている「蠱」というものらしい。
 たとえ、妄想の中であれ、復讐を決意し、対抗暴力にのめり込んでいく姉と弟の姿は愚かで痛ましい。殺人の感触は、虐待による記憶以上に、今後彼らを苦しめ呪縛しつづけるはずだから。
 映画では、姉弟による義父殺しがクライマックスを形成しており、その舞台として古びたトンネルが選ばれている。このクライマックスになだれこむ直前に、きわめて印象的なショットがある。姉弟の乗った車が、あるトンネルをくぐり抜け、件のトンネルに入っていく直前に、中間地帯とでもいうべき場所に停車するのだ。画面の片隅には朽ち果て倒れた「危険 落石注意」と書かれた看板が写っている。この中間地帯で姉と弟は義父殺しについて言葉を交わした後、トンネルに足を踏み入れていく。
 トンネルで行われる殺人が、いかに陰惨に描かれ、画面が血みどろに塗り込められようと、それは見る者の存在を脅かすものではない。トンネルとは、恐ろしいと同時に懐かしい、不気味な場所であり、見る者を慰撫するきわめて映画的な装置だからだ。真に恐ろしいのは、車が止められたあの中間地帯である。そこは、予期せぬ落石が不意に私たちの頭を直撃するかもしれない場所であり、何度も繰り返し殺人の感触を思い出しては苦しまなくてはならない現実を、見る者に想起させる空間だからだ。あの中間地帯のショットをこともなげに撮れてしまう大工原正樹の力量に嫉妬を覚えると同時に、これが映画を撮るということなのだと思い知らされる。
 だが、それでも疑問は残る。果たして映画のラストが、旅館の寝床に横たわるやさしい弟思いの姉の姿でよかったのだろうか、と。トンネルでの惨劇は見る者を慰撫するものでこそあれ、衝撃を与えるものではない。それをさらなる慰安のシーンで受けて、映画の幕を引くところに、大工原の心の柔らかさを感じて安らぎを覚えもするが、物足りなさを感じる。
 トンネルに入った者は、必ずトンネルから出なければならない。そこに広がるのは、苦しみの記憶すら、やがては慰安へと変化せざるをえない砂を噛むような日常であるはずだ。最後に、そのことを愚かなる姉弟に、いや見る者に突きつけた時、あの中間地帯の凶々しいショットは本当に輝くのではないか。


井土紀州:映画監督・脚本家(『泥の惑星』『行旅死亡人』『ラザロ-LAZARUS-』『百年の絶唱』他)