『BMG』へのコメント(高橋洋)

 何か80年代の自主映画を思わせる気配がそこかしこに漂っている映画であった。
 80年代の自主映画といっても色々なのだが、ここで言ってるのは、立教のパロディアス・ユニティとか僕の所属していた早稲田のシネ研とか法政のシアターゼロ関係とかが撮っていた世にもくだらない映画群を指す。一応、ボーイ・ミーツ・ガール(つまり略称BMG)があったりはするのだが、そこで恋愛沙汰とか真面目な人間ドラマを描いて人を感動させてやろうなんて気はさらさらなく、たちまち怪しげな指令者が出て来て、いい加減な陰謀が動きだし、思い切りな車の停め撮りや思い切りなスクリーン・プロセスがあったり、舞台は日本だというのに平然と拳銃や暗殺者が出て来たり、こだわりの長回し撮影が敢行されたりする、映画ってこういうことが起こると面白いよねという要素ばかりをひたすらぶちこんだような映画である。
 ずいぶん経ってジャック・リヴェットの『北の橋』がほとんど同時代的にそういうことをやっていたと知るのだが、そんな映画をそもそも知らない、見られない人たちがたぶん世界中で似たようなことをやっていたに違いないから、映画は恐ろしい。『北の橋』を初めて見た時は、我々が8ミリでやっていたことをけっこうな予算とキャスティングでやってる人がいたんだ、マジで、とかなり呆れたものだ。
 『BMG』には上に書いたようなことがほぼ全部出てくる。もっと監督の松浦君は、我々と違って、『北の橋』をごく当たり前に見ている世代なんだろうが。
 登場人物たちは、80年代の空気そのままに古本屋に出入りしたり、大学や街をうろついたり、映画館にやって来たりする。
 別に80年代への郷愁や再現を狙ってわざわざそうしてるとは思わない。今だって、こういう空気はきっと当たり前にあるのだけど、いつの間にか描かれなくなっただけなんだろう。
 そう言えば、こういう空気を“シネフィル”の名のもとに敬遠する傾向が現れ出したのも80年代なのだった。
 考えてみれば不思議である。我々はどれだけくだらないことが出来るかに必死だっただけなんだけど。
 『BMG』に一つ苦言を呈すれば、くだらなさがもう一つ希薄であることだ。
 僕はよく映画を見ていて、タルくなってくると、この映画をいかにくだらなくするか妄想に走ってタルい間合いを埋めようとするのだけど、そんな習慣が身に付いてしまったのも8ミリを撮っていた学生時代のことだ(というか、だから自分で映画を撮ったのだ)。『BMG』にはその種の妄想が時おり走る。映画自体がもっともっと前提を覆すようなことを妄想していい。それやっちゃ終わりでしょみたいこなことを。終わっちゃっていいのだし、終わっちゃったらまた別のアイデアを考えるだけだ。映画が映画でなくなる存亡の危機こそ、最大の映画のネタである。要素と要素の異常な結合だけで成り立っている映画を僕は夢想し続ける。
 そういえば、あの暗殺のターゲットらしき金融業者の歩き方は最高にくだらなかった。こんな人、映画に写っちゃっていいのかしら?と不安になるぐらい見入ってしまった。
 いや、演じているのはよく知ってる人なのだけど、あの人、あそこまで変だっけ? 普段はもうちょっとまともな人だと思っていたのだが、まるでドキュメンタリーの人物が介入してきたかのようで、映画のヤバさを体現しているのだった。

高橋洋:映画監督・脚本家(『旧支配者のキャロル』『恐怖』『リング』他)