『電撃』の顔について(古澤健)


(『電撃』は9/24,10/2,10/5,10/8に上映)

渡辺あいは、僕の連作短編『Mっぽい』シリーズのヒロインである。と書いたら本人に嫌がられるだろうが、僕の認識ではそうなのだからそこから始めたい。役者が監督に転じると、大概傑作を撮ってしまうものだ。最近で言えば、ドリュー・バリモアがそうだ。『ローラーガールズ・ダイアリー』は、その年に作られた優れた映画のうちの一本であることを超えて、長く映画ファンの心を揺さぶり続けるであろう傑作であった。果たして、渡辺あいのフィクション映画第一作『電撃』は傑作であった(であるから、『Mっぽい』シリーズの主人公である川口陽一がいつか監督作を発表すれば必ずや傑作になるであろう、とここに予言しておく)。
個人的なことを続ければ、渡辺は映画美学校初等科で、僕のクラスの生徒であった。授業の課題として提出されたビデオ課題の印象は強く残っている。厳格で端正な画作り。それだけだった。たかだか3分ほどのビデオではあるけれど、何度も観ようという欲望を起こさせないものだった。映されている人物も風景も、すべてが撮影テクニックに抑圧されていた。
そういう意味で、『電撃』は僕が知っている渡辺が撮ったとは思えない映画だった。確かに端正な画作りはされている。しかしここには確かな世界の手触りがある。フレームは堅牢な檻ではなく、風が行き来している。
渡辺はなにを発見したのだろう?
一つ確かに言えることは、ヒロインである美輪玲華の顔、である。あまりに複雑な魅力を放つ彼女の顔を見るために、僕はこれから何度も『電撃』を観直すだろう。
映画に映しだされる「顔」ということでいうと、僕がこの数年とらわれている、ある言葉がある。ベテランのキャメラマンが、ツイッターでふとつぶやいた言葉だ。「風景をどう撮ればいいでしょうか?」という問いに対して、そのキャメラマンは「風景に演技指導をすればいい」と答えていた。僕はハッとしてしまった。
『電撃』には端的にその答えが映し出されているように思われた。
風景は演技指導され、ヒロインの顔は風景のように荒々しい。
スクリーンに巨大に映しだされた人物の顔は、「表情」という情報を伝えることを超えて、風景と化す。スクリーンが巨大であればあるほど、僕ら観客はあちらの星からこちらの星へと視線を動かすようにして、人物の瞳と瞳とのあいだの距離を踏破しなくてはならない。そのとき、顔は顔であることをやめて、壮大な風景と化して、人間を圧倒する。映画が発見したクロースアップとは、そういうものではないのか。
無論、地球上のすべての風景が顔になるわけではないように、すべての顔が風景になるわけではない。
渡辺あいという優れたまなざしの持ち主は、美輪玲華と出会ったときに、彼女が荒々しい風景であることを見抜き、そして彼女をどこに立たせればいいのか直観したのだろう。あの波しぶきは、美輪玲華の顔である。

古澤健(映画監督:『making of LOVE』『アベックパンチ』他。最新作『Another』が2012年全国東宝系にて公開予定)